2014/04/05

立川志の輔独演会にいってきた

2014年4月3日木曜日のことだ。
18:00開場18:30開始。
全国的知名度をいただいて平日にあててきたにも関わらず、鹿児島市民文化ホール第2は2階席まで満席でした。
ミーハーやなあ。
ざっと見渡す。中年女性が多い。ガッテン同様F3層がメインターゲットだ。

タクシーで18:40くらいに会場についた。10分遅刻だ。
会場後方の扉を開けてそっと中に入ると、ちょうど志の輔師匠が高座に上がったところだった。
しまった。
志の輔師匠の噺は長い。
全席指定チケットで前から3列目の芯という最高のシチュエーションを用意したにもかかわらず、一席目が終わるまで席につけない。いや、いいんだろうけど、人が話をしている前を横切るなんて野暮な真似は・・・・・・。
というわけで、会場後方の車椅子エリアで立ち見をする羽目になった。
後から聞いたところによると、一応前座が一席あって、饅頭こわいを5分くらいにした激ショート版をやったらしい。
短いなあ。前座ってふつう15~20分くらいあって、つまりそのくらい遅れて会場に入っても、前座の終わったタイミングで席につけるというものなのに。
ちょっと計画がくるったよ。

それにしても、前座さんのあと、志の輔師匠は1時間と1時間半の高座を2席やったわけだが、噺における労働時間で考えたら前座の方がよっぽど短いということになる。といっても、弟子というのもは、24時間「弟子」という仕事があるようなものなので、現在日本で最もチケットが取れないと言われる落語家の弟子ときたら、大変な苦労だろう。

聞きたかったですね。惜しいことをした。

さて志の輔師匠の一席目は創作「みどりの窓口」。
この人の創作落語は、小説家の清水義範の力もあってどれも非常に面白い。ネタが緻密で笑いどころも豊富である。創作と言えば最近六代目を襲名した上方の文枝の方が人口に膾炙するけれど、ロジックの好きな人なら志の輔師匠にいくだろう。もっとも文枝には文枝の良さがあるけれど。
「みどりの窓口」は以前にインターネットで聞いたことがあったので、その記憶と照らし合わせながら聞いていたのだけれども、後半の悪酔いするくだりに若干雑然とした感じがもたれた。しかし、もともと盤石なネタで、おもしろく、中入り後の二席目にも期待をつなげる一席だった。
いやしかし、明るくて華がありますね。これだけ華のある落語家は、現代では枝雀以来ではなかろうか。

中入―ようやく席につけた。
「トン、トン」の拍子から木賊狩りが流れだし、緞帳あがって高座をみると、これが莫迦に高い。箱馬を縦2つ重ねたくらいの高さがある。それがステージ上だから、客席床から1500以上あったろう。見上げるような格好だ。前から3列目でみていて、座布団は見えない。

まあよい。

黒い着物姿で下手からあらわれた志の輔師匠。
まくらをふらず、いきなり「サダや」ときた。二言三言のやりとりで「百年目」であることがピンとくる。
すぐに客席全体にピンときた雰囲気がただよって、さすが平日にわざわざ出かけてくる客だけに、多少聞き込んでいる人間ばかりのようだった。
さて「百年目」。
この話はまちがいなく古典落語なのだけど、落語の話を分類する際、どうも分けようのない感じがする。
ものすごくおもしろいのかといえばそうでもないし、人情話かといわれても首をひねる。
よく「とたんオチ」とか「地口オチ」みたいにオチのタイプで分類するケースがあるけれど、この話のオチときたら「鼠穴」や「大工調べ」並みにくだらなく、しかもアナクロ。このようにオチで分類するのは、噺の本質を無視することになるので、ナンセンスきわまりない。
敢えて言うならば訓話か。経営訓と捉えれば、そうともとれるが・・・・・・。でも社長向けではない。「番頭」のようにリーダーシップをとる人間の在るべき姿が提唱される話で、「旦那」という言葉の語源が語られるあたりは最大の山場だろう。
志の輔師匠、この話を淡淡と1時間半やった。前半は笑い多く、後半はたっぷり聞かせるように。
こんな風に書くととても素敵な1時間半に聞こえる。が、(後半お休みになられている方がちらほら)。
私の思ったことを箇条書きにすると
・志の輔師匠、太ったな。
・志の輔師匠、結構低音利くな。
丁稚のサダに「コメのメシがアタマに上がったってェのは、キサマのことだ!」と啖呵を切るところなんか、低音の凄みがあった。けれども人間ってあんな風にいきなりブチ切れるものかね。違和感がありました。
噺の展開を地の文でトツトツと語っていく調子は師匠談志そのものだ。だが志の輔師匠には、談志にはない華がある。おもしろくて、クリーンで、なんだか落ち着くキャラクター。それはもしかしたらテレビのイメージなどが助けになっているのかもわからない。だから平日でもこれだけの人が集まるのだろう。

それにしても、「百年目」は1時間半もかけて聞ける話じゃないなあと。せいぜい45分くらいじゃなかろうか。
18:30スタートの落語会、きっとみんな「終わったらごはん食べて帰ろうかね」ですよ。
人情噺を語って会場をシーンとさせたら、いたいけな中年女性は腹の音がなるのをいかに隠すべきか。

あとから主催者の人に聞いたら、師匠は何も食べずに上がったらしい、けどさ。

カーテンコール(?)では「こんごともガッテンをよろしく」を連呼していましたけど、民放主催の落語会でしたよ。

2014/01/05

2014年 明けましておめでとうございます。

新年、明けましておめでとうございます。

平成26年がスタートしました。
本年も、これまでどおりの、あるいはこれまで以上のご愛顧を宜しくお願い申し上げます。

みなさまはお正月を、どのように過ごされましたか。
ご家族・ご親戚とご一緒でしたか?
あるいは、恋人・ごく親しいお友達・ご近所のみなさまと?
大切な方と節目を過ごされることは、実によろこばしいことです。

中にはお仕事で職場の方々や、お客様とご一緒だった方もいらっしゃることでしょう。
それはそれですばらしいことです。

常々思いますに、わたくしたちのすむ日本では、昔から「節目を誰と過ごすのか」ということに、重きがおかれているような気がいたします。

たとえば、若者の間では【クリスマスイブは恋人と過ごすもの】という俗習があります。
クリスマスイブに同性同士で誘い合うのは野暮な行為として嫌われています。恋人同士の場合、事前に納得のいく説明をしておかない限り、当日の夜に別の予定を入れてしまうことは、今後の関係に齟齬をきたす原因になりかねない、極めてデリケートな一日です。

お正月の場合、お盆も同様ですが、何においても血縁での寄り合いが重視され、恋人や友人と会うことは二の次となります。
にもかかわらず、恋人同士の関係が成熟期に至った場合にしばしば聞かれる「今年の元日はカレシの実家で過ごしました」「カレママとお雑煮を作って~」という状況は、当人が家族の一員として認められていることを半ば証明する、まことに晴れがましい風景です。

逆に申しますと、「お正月はどうするの」と尋ねて「帰らない」あるいは「帰れない」という返答を聞かされた場合、その理由は様々あるでしょうけれども、一切の予備知識を排して耳にするその言葉の深奥には、誰しも寂しさと好奇心を禁じ得ません。そして多くの場合、直後に「え? どうして?」「何? 仕事?」といったお節介な質問をほとばしらせ、不愉快なコミュニケーションの空隙を埋めようとします。ですが、それは緊張した(かのように思われる)関係を、ひとまず防衛しようとする本能に近い行動です。罪はありません。しかしなんと後味の悪いことでしょう。

クリスマス・お正月・・・・・・このように、わたくしたちの社会は節目によって誰と過ごすかを限定しようとします。それはまるで節目々々に人間関係を再確認するかのようです。うまくいけば、従来の関係がより固い絆になりますが、悪い場合、ボロが露見したり、コミュニティから除外したりされたりします。
こういった社会の仕組みの中に潜在的に組み込まれた関係浄化、すなわちコミュニティの再構築作用を、わたくしは「ヒエラルキー・リロード」と呼んでいます。勝手に呼んでいます。いやはや、実にいやらしい見解です。

わたくしたちは誰もが何かしらのヒエラルキーに属して生きています。属性は上下関係のように思われますが実は質的な違いであり、各属性は絶えざる交流の中でつねに位相を変えながら時間にそって遷移してゆきます。その中には三竦みのような循環型の関係性(たとえば「部下の父が大学の先輩」など)、その関係により波及する矛盾状態など、単純に違いを線引きできない関係が多々あります。
わたくしたちのヒエラルキーは、日常の気づかない間に、こういった矛盾により摩耗していきます。
この摩耗をいったん回復させるのが、節目なのです。

節目によって回復したヒエラルキーは、社会全般の関係を浄化すると同時に、個々人の剥がれおちつつあった「日常」というリアリティを修復します。節目を経て回復したヒエラルキーに、わたくしたちがひさかたぶりに帰還したとき、懐かしさと同時に何とも言えない新奇さを覚えるのはそのためです。刷新されて以前と違う「以前のまま」を体験しているわけです。

しかし、どんな節目が押し寄せようとも、摩耗するばかりで回復できない関係があります。

それは「個」の関係です。

あなたを見ているあなたがいます。そのあなたも、あなたに見られています。

わたくしたちの社会において、個人のリアリティは、その個人がヒエラルキーのどの層に位置するかで判断されがちです。しかし、実のところ、そんなものは社会を前提としたリアリティであり、個人が個人自身との関係を見つめなおす場合、なんのよりどころにもなりません。

じゃあ、何をよりどころにするか・・・・・・。

あなたのリアリティは、どこか高いところからあなたを見つめていて、なにかあったら守ってくれるような強さを持っていますか?
 ―いいえ、もっていません。そんな義理すら証明できない。

あなたのリアリティは、あなたのかけがえのない恋人のリアリティと互換できるものですか?
 ―いいえ、できるものか。恋人は相手のリアリティを相手以上に持っている。

あなたのリアリティに、あなたはどう向かい合うべきか・・・・・・。

「ねえねえ。リアリティおじさん、おしえてよ」
「『おまえ』が『おまえ』を生きるのに、正月もクリスマスもねえんだよ」

手をとりて ともにのぼらん 花の山

2014年の皆様方のリアリティが益々佳キ花となりますことをご祈念もうしあげ、年頭のごあいさつとさせていただきます。